砂漠に水

...Drop by drop shifts the desert to oasis.

第0920滴:震災に生きた鞄職人

ガラス玉を木工用ボンドで左右の耳たぶにバシッと貼り付けると長渕剛の 名曲『とんぼ』を背にして仁王立ちとなった@清原ごっこをした杉山です。

ちなみに、接着面積がとっても大きかったのでボンドの痕跡が消えません。

ですから、下呂温泉でもらったタオルでこすったら少し鬱血してきました。

さぁ、そんなピアスをして『とんぼ』を聴いたら周囲を破壊したくなった ってハナシはバシッとやめて、今日もサラ~ッとお読みください。

■私は生まれて此の方、死にたいと思ったことは一度もありません。

すっごく悩んでも自ら命を絶とうなんてバカなことは考えません。 しかし、死ぬことは少しも怖くありません。今日でも構いません。

■ただ、自ら命を絶つことだけはなにがあろうとやりません。

でも、それだけ何不自由なく生きているからだと思います。 私は幸せを掴むことより長く生きることを優先しています。

■だって、長く生きてりゃきっといいことがあるからです。

どんな人の人生にも辛いこと半分、楽しいこと半分です。 生まれてから死ぬまでズッと辛い人間など存在しません。

■それを目の前で自らの体験を交えながらお話していただきました。

田村幸樹。47歳か48歳。今回の【砂金の人々】の取材先です。 その日は1月18日で、12年前の昨日は震災が起きた日でした。

■田村さんは震災が起きるその1年前に死のうと思いました。

事業が軌道に乗らず借金ばかりがふくらんでしまいました。 大好きな三島由紀夫のように割腹自殺をするつもりでした。

■1年です。1年間も縦に斬ろうか横に斬ろうか悩みました。

まるで大マグロを目の前に包丁を持った板前の状態でした。 そのときあの数千人もの犠牲者を出した震災が起きました。

■さっきまでそこにあった高いビルがありません。

見渡す限り目の前が地平線のようになりました。 田村さんの鞄を作る工房も焼けてしまいました。

■しかし、頑張りました。田村さんは真顔で言いました。

死ぬことなんか考える余裕がなくなったんや、ってね。 そして、なにがあっても生き続けたいと頑張りました。

■でも、震災の前も同じくらい頑張っていたんです。

頑張ってもダメだったのに震災の後に頑張ったら、 どう言う訳か事業が上手く軌道に乗り始めました。

■田村さんは「方向性が変わったんや」と言いました。

いくら一生懸命に頑張っても方向が間違っていれば、 頑張れば頑張るほどマイナスになってしまうんです。

■それを震災が教えてくれたと田村さんは言いました。そして

「悩みなんて大したことないよ。なんとかなるんじゃなくて、 絶対になんとかなるようにするはずや」と笑って言いました。

┃編┃集┃後┃記┃───────────────────

テレビや新聞でしか知らなかったお話を切々と語っていただきました。

田村さんは「あの震災に遭ったからこそ今の自分がある」と言いました。 当然、災害なんてない方がいいに決まっています。しかし、田村さんに

一つのキッカケを与えてくれたのも、紛れもなく12年前の震災でした。

あれがなかったらおそらくお腹を縦か横に割いていました。 今、こうして鞄を作ることもお話をすることもできません。

しかし、田村さんは「身内が亡くなっていないからそう言えるんだ」と、 複雑な表情をしました。多くの犠牲者を出した災害には違いありません。

だからこそ今日、生きている実感を大いに味わいたいんです。 辛いことも半分、楽しいことも半分だと思えば楽になります。

田村さんが感じた想いを言葉で表現したメルマガも秀逸です。

今回の取材では、震災の状況をできるだけ主観では表現しませんでした。 事実と異なってはいけませんし、表現できるだけの筆力もないからです。

では、また明日、お会いできることを楽しみにしております。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━