じっちゃんの名にかけて頑張ったのは金田一少年だけじゃねぇぞ、この野郎。こっちはリアルなじゃっちゃんのそのまたじっちゃんである二代目の倉知金太郎の名にかけて六代目は必死こいて頑張ったんだ。では、そろそろ今日の〆に入ろう。まだ早いっちゅう話やがな。では、そろそろ本題に入ろう。どこがいいのかよく分からないが、観光地として世界レベルで人が集まってくる【犬山】を訪れた一昨日の僕は、グーグルマップでたまたま見つけた『倉知金太郎饅頭本店』にダイヤモンドの原石を発掘した気分で立ち寄った。いい。問答無用に素晴らしい佇まいだこと。
艶やかな暖簾(のれん)をくぐって敷居をまたいだ僕は「ん?美濃町の旧今井家住宅かよ!」と誰にも聞こえない声でつぶやいた。すると「いらっしゃいませ」と奥から男性の声が聞こえた。僕はこの画像の右下隅、将棋盤で例えると「香車」がある位置の座布団に腰を下ろすと六代目の倉知克行氏から「倉知金太郎饅頭」が今日に至るまでの大河ドラマのような激動の歴史についてお願いもしていないのに熱く語ってもらった。江戸末期の頃に倉知家が犬山城下で販売していた幻の饅頭。それが「倉知金太郎饅頭」なんだ。三代目のじいちゃんは学校の教員をしていたので二代目の金太郎じいちゃんで途絶えちまった和菓子屋稼業。金太郎じいちゃんが考案した饅頭のレシピはどこにもない。しかし、実際に「それを食べたことがある」という人に出会ったことで六代目の伝統を守りたいという熱い思いに火が点いた。それから数年間、実に多くの人に製造を依頼してチャレンジしてきたが、当時のそれとはかけ離れたものしかできなかった。次に続く。
き、金ちゃん、カッコいい~!それは『蒲田行進曲』の銀ちゃんやっちゅう話やがな。そうだ、この六代目の倉知克行氏とほぼ同じように二代目の金太郎じいちゃんも㊎マークの赤い腹掛けを纏っていたんだよ。前述の実際に饅頭を食べたことがある人がそう言ったんだから間違いない。赤の他人から見れば笑っちゃうくらい失敗の連続だったが、知り合いを通じて紹介してもらった岐阜県可児市にある『和菓子処 梅園』の店主から「そういう秀逸なものは自分で作れ。うちで修業しろ」と言われて一念発起した六代目は、今さらながら自分で1から作ることを決意した。どう見えるか知らないが、こう見えても六代目の本業はピアニストなんだ。いいかい、マジで。
あんこの炊き方から皮の作り方、包み方など和菓子作りに関するノウハウを教わり体で覚えた。そして、やっと完成した。実際に食べたことのある人にも試食をしてもらうと「この味だよ」とやっと念願のお墨付きをいただくことができた。苦節10年、それは執念の10年でもあった。六代目は泣いた。諸説あります。そんなこんなでノーマルバージョン及び揚げ饅頭バージョンの「倉知金太郎饅頭」を六代目の熱い話を肴に熱い珈琲で丁寧に味わった。ノーマルバージョンを一口頬張ると粒あんの豆の食感が素晴らしい。ちゃんとしっかりした歯応えがあって甘さ加減も風味もいい。一方の揚げ饅頭バージョンのそれは別世界の饅頭に進化していたので新鮮だった。それはそうと大食いチャレンジ企画があるんだよ。「15個を15分間で食い切れたらあーた、代金無料+現金1500円」。それを20個、30個・・・60個までチャレンジできるとか。金太郎、あなたって金太郎は・・・。15個か、全国甘党党首の名にかけてやったろかしゃん。いつものように「やらねぇよ」とは言い切れない僕がいる。20個に成功した猛者はいるようで30個に挑戦した中学生は8個でギブアップした大和田(爆)。さすがに8個は情けないだろ。当時は贅沢な品でお金持ちしかお口にできなかった「倉知金太郎饅頭」。今の貨幣価値にすると1個が3000円くらいだったとか。それを大食いチャレンジできる令和に生きることができて本当に僕はハッピー&ラッキー野郎だと本気で思った今日この頃、いかがお過ごしでしょうか。