生まれたときから今日に至るまでずっと杉山弘道。
1964年9月18日の早朝か深夜、岐阜県美濃市でご無事に生まれる。 3600グラムの珠のような赤ちゃんだったと、かすかに記憶している。
父親が岐阜県人で母親が埼玉県人だったので、 今でも味噌汁はあわせ味噌しか飲めやしない。 でも、どういうわけだか永谷園だけはOKさ。
幼稚園に入園する際に美濃市から比べれば大都会の岐阜市に移り住む。
ご幼少の頃から、ちょっと変わっていて、 幼稚園ではお遊戯に一切興味を示すことなく、 羽田野先生と長谷部先生には大変なご迷惑をお掛けした。
今となってはとっくに時効だが、謹んでお詫び申し上げます。
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小学校の低学年では、執拗なまでに左右対称に懲り始め、 身の回りにある左右対称のものに興味と意識を集中させた。
だから、マジンガーZのあしゅら男爵と初代キカイダーの顔が、 まったく許せなかったことを昨日のことのように覚えている。
小学3年生のときの個人懇談で、担任の渡辺京子先生が、 「この子は学者並みの頭ですよ」と僕の母親に言ったとき、 「は?杉山弘道のことですか?」と僕の母親が聞き返した。
それ以来、だれを信用して良いのか分からなくなった。
小学6年生のときは、身長が164cmでクラスで一番大きくて、 幼いながらもこのまま成長すれば軽く180cmは超えると信じていた。
が、それから今のところ7cmしか伸びてやしない。 これが唯一の人生の誤算と言っても過言ではあるまい。
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中学に入ったときには、すでに腕立て伏せが日課だった。
中学の3年間は英語が好きで、なぜか「Come here,Andy」という フレーズがずっと前頭葉の奥のほうでリフレインをし続けていた。
中学3年生のとき、全校でも最も早くビデオデッキを購入したため、 わざわざビデオデッキを見学するために多くが集まった。
初めて録画した番組はブルース・リーの映画『ドラゴンへの道』。
今でも昔を懐かしむことは多々あるが、すべては中学3年生のときだ。 田んぼのあぜ道を歩きながら学校に通った思い出が鮮明によみがえる。
【砂漠に水】で昔を懐かしむ内容を書くときは、この頃を必ず思い出す。 とにかく、いい時代だった。二度と戻りたいとは思わないけど。
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高校に入ったときには、すでに腕立て伏せと腹筋が日課だった。
だから当然、体質的には格闘技派。 で、柔道部を創設する。だから、3年間最初から最後まで主将。
しかし、大学へ進学するため高校3年生のときは、 授業には出ず自宅で勉強し、放課後の部活だけは参加した。
なので担任の先生には出席日数だけチェックしてもらった。
高校の3年間で女子とは5回も会話をしていない。 それが硬派だと、そう真剣に信じていた。
正統派の硬派で鞄は全校一太く、中学~高校時代に一切、 グレることはなかった。というよりも、 グレたら絶対に将来、損をすると確信していた。
その証拠に当時、万引きして丸坊主になった奴全員の 似顔絵が描けるくらい今でもハッキリと覚えている。
そんな打算的かつデンジャラシーな学生だった。
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行きたい大学を目指すのではなく、今入れる大学で十分という リアル鶏口牛後で偏差値なんぞまったく興味もなかったそんな僕は、 名城大学法学部しか合格しなかった。それで思う存分、満足だった。
そう、たとえ東大や京大に入ろうと、どんな有名大学に受かっても きっとこれを書いている。
だって、東大の僕が今の僕と違っていたら、 このブログを書いている僕は一体だれなんだい?
だから、大学に限らず就職でも入れるところで十分なんだ。
名鉄で名古屋まで行き、地下鉄・東山線の伏見で乗り換え、 鶴舞線の塩釜口で降りて大学に通った。
地理の試験では問題がサッパリ分からなかったので、 自宅から大学までの地図を書いたら評価は「A」だった。
まじめに等高線の問題を解いていた奴は「C」だった。 世の中の理不尽を初めて知ったそんな夏の午後だった。
大学4年間の思い出の曲といえば、ジャーニーの『セパレイト・ウェイズ』が パッと浮かぶが、小林克也の「ベストヒットUSA」は毎週欠かさず見ていた。
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1987年名城大学法学部を優秀な成績で卒業し、 結婚式で仲人さんが嘘つきにならないようにと頑張るが、 思いっ切り平凡な成績で卒業。
バブルという言葉がまだ誕生する前、そんな売り手市場のときに まったりと就職活動をした。当然、内定は4~5社はもらった。
その中で一番大きな会社に入った。 選んだ基準は、大・中・小。学生はそれしか分かりゃしない。
最初の就職先では東京・沼津・おてんばいや、御殿場・名古屋を 転々と研修で回った。それはそれで楽しかった。
当時、流行った番組が『あぶない刑事』だった。
新入社員研修が終了し、本採用の静岡県浜松市では まったく興味のない分野の仕事に思いっ切り嫌気が差していた。
本当にこの仕事で良いのだろうか?と毎日毎日毎日毎日毎日悩んで、 毎晩、枕を濡らしながら独身寮の小汚い布団に入っていた。
そのときに書いたマリー・ローランサンの表紙の日記があるが、 今ではすっげぇこっ恥ずかしくてとても読めたものじゃない。
このときちょうど香川県高松市への転勤を命じられ、 僕はソバ派でうどんは無理という訳の分からない理由で退社する。
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辞表を出したその夜にいい感じでジョギングをしていたら、 スーパーいしはらの前で下着泥棒に間違われ、20~30人に囲まれた。
リアルにその夜には下着泥棒が出たらしく、本当にタイミングが悪かった。 で、どんなに説明しても言い訳にしか受け取ってはくれない。
「どうしてそんなに汗をかいているんだ?」 「ジョギングをしていたからだ」
という吉本新喜劇でも使えないオチのない問答を延々と繰り返した。 このとき決して結論を出してはいけないということを学んだ。
そう、結論を出したときは終わるとき。要は、負けてしまうのさ。
辞表を出した後ゆえに、だれも助けてはくれなかったとすすり泣き、 一人、部屋で竹内まりやの『元気を出して』を聴いてやり過ごした。
いいかい「竹内まりあ」じゃなくて「竹内まりや」だよ。
でも、人間はいいかげんなもので、そんなんで元気になった。 本当に人間でよかった。冤罪で前科者にならなくて本当によかった。
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退社をしたものの立場的に自宅には戻れず、 名古屋の中村区八田の新築のコーポで作家を目指そうと決意した。
浜松にいたときに小洒落た老舗の文房具店で、 5万円のモンブランのマイスターシュティックを購入していた。
まだ若干23~24歳のこの僕にそこの店主が、 「なにか文章を書かれるお仕事ですか?」と聞いて来たので、 「はい、そうです」と模範的な回答でその場を切り抜けた。
その店の壁には井上ひさしのサイン色紙が貼ってあった。 いつかはこの壁に僕の色紙を貼ってやるぜ!と思ったものだ。
で、その名古屋では最初の1行が書き出せず電光石火であきらめた。
結局、半年間一人住まいをして敷金・礼金や飲食費等々で、 80万円を使って僕の青春物語は幕を閉じた。
でも、いい経験だった。二度と味わいたいとは思わないけど。
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その後、岐阜市内の製薬会社に入社すると アガサ・クリスティ並みの薬の知識を身につける。
このときからの口癖が「一服盛ったろか」。
この会社には、たったの1年半しかいなかった。 辞めた理由は結婚退職という例の如く訳の分からない理由だった。
が、訳の分からない理由を告げると間違いなく引き止められない。
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3つ目の会社に入社してから20日後に結婚した。
この3つ目の会社である会計事務所には12年間ほど勤めた。 そしてここで多くの社長というカテゴリの人種と出会う。
まず入社して思ったのは、フツーの会社とは異なり、 多くの業種を知ることができるということ。
いくら大きくても自動車メーカーも製薬会社もカテゴリはひとつしかない。
でも会計事務所は、どんな業種とでも関わり合うことができる。 そこが一番面白かった。
そして、世間の社長なんてほとんどは「シャチョー」で、 経営者なんて1000人に1~2人くらいなものだとつくづく痛感した。
要は、寅さんのタコ社長と同じレベルってことさ。
この12年間でさまざまなノウハウだけでなく、 モノの捉え方や考え方をたくさん学ばせていただいた。
また坐禅を組んだり、お客の破産の手続をしたり、 生きていく上で一番大切なことはなにか?ってイチイチ考えさせられた。
そして、仕事人間であった父親の死に遭遇し、 なんだかんだいっても生きたもん勝ち!とそう強く確信した。
一人称の大切さも、起業する喜びや戸惑いも、経営を続ける苦しみも すべてこの12年間で血肉のように身につけた。
だから、この会社の社長やお客である多くの社長方々には、 お金では換算できない財産をいただいたと深く感謝している。
でも、その選択をしたのはこの僕だし、同じような境遇にいても まったくなにも感じないバカもいる。だから所詮、自分の問題とも思う。
この会社を12年間も続けられたのも、お客である顧問先が多業種なのと 直接に相手をする対象が社長だったからだ。
その前の2社と比較していえることは「飽きにくい」ということだろうか。
いろんなカテゴリの仕事があり、クセの塊のような社長を相手にすると 楽しくて仕方がない。ただそれだけで12年間も続いたし、 一生、サラリーマンで生きて行こうとフツーに思っていた。
でも、ある日、急に虚脱感に襲われ、すべてが嫌になった。
きっと積もり積もったストレスも凄まじかったのだろう。 その証拠にほら、ご覧。こんなにデブになっちまっただよ。
詳しくは【大改造!!劇的ビフォ→アフター】で確認してほしい。
とにかく戸籍上のオスは一度ダメだと思ったら、もう元には戻らないので、 それからはただ辞めることだけに意識が向けられた。
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そして、独立した。 数年前に思ってはいたが、2万人・300人・20人の会社に勤めたので、 最後は1人しかないかな、と思っていたとおりになった。
別に岐阜が嫌いな訳じゃない。でも、岐阜ってさ、 地場産業がなくて働く場所がない。だから、会社の数も少なく対価も安い。
そうだ 岐阜出よう!
名古屋の植民地として物価や地代も安く、住むにはいい場所だ。 喫茶店のモーニングサービスも全国一だしね。そして、小倉トーストだよ。
だから、やっぱり岐阜から出よう!
居心地が良い岐阜に住み、他県のお客を増やせばいいんだよ。 一番悲惨な状況は、東京に住んでお客が岐阜の会社だ。 だから、メールマガジンを始めたのさ。
インターネットで全国いや、全世界に自分を売ることができる。 リアルに、オン・タイムに。
あとは売る商品だが、コンサルタントの売る商品なんて自分だけだがね。 でも、それをなにに乗せて売るかが肝心だ。 そして、絶対に負けないキーワードを一人きりジッと考えた僕がいた。
おぉ!ビジネスの中でも「社長」に関するコンテンツなら、 日本中でだれにも負けない。絶対に負けない自信はある。 だから、社長専属コンサルタントなどという美しい肩書きを勝手に作った。
メルマガの内容は社長を軸に、いろいろと広げて斬って行こうと決めた。 そして、出すからには毎日出す。土日も出す。だから、完全日刊で出す。
絶対に媚は売らない。腐ってもだれに媚を売ることもなく、 ただ自分が今までの人生で感じたことや気づいたことなど、 等身大の自分を打ち出すことのみ、かたくなにやり続ける。 だから、だれにどうこう言われる筋合いもない。
そして、自分の思いや感じたことは100% すべて【砂漠に水】に乗せて発信をしていた。
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その後、メルマガが出版されるまでに至ったが、いかんせん出版社というより 出版業界そのものの「昭和どころか大正時代かよ!?」とツッコミたくなるような 旧態依然としたレトロな体質にすっげぇ嫌気が差した僕だった。
思うに、ありとあらゆる業種の中で最もレトロでカビ臭い業種・業界だろう。
それ以来、出版うんぬんのお話しが来ても「そんなことやってるヒマはない」と、 たとえ電話やメールでも可能な限りの作り笑顔で丁重にお断りするようになった。
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そうこうするうちにミリ単位で歳月も流れ、目に見えないサービスから 目に見えるサービスを販売しまくる展開を考えるようになった僕がいた。
そのひとつが全国の税理士事務所に向けてのリアルなサービスだ。
前職の経験をフルに生かした税理士事務所向けのサービスに注力すると 一気呵成に伸び続け、センチ単位どころか「あっ」という間に業界1位となった。
そのとき僕はつくづく思った。
才能って隠せないものなのね。自然と開花してしまうものなのね、ってね。
そして、さらに歳月はメートル単位で流れ、この僕も2人の孫を持つジジイとなった。
そして、嫌でも現在に至る。(2017年11月2日)
この続きは気が向いたら書こう。